ラモーンズファンクラブ会長 畔柳ユキINTERVIEW(前編)

ラモーンズファンクラブ会長 畔柳ユキINTERVIEW(前編)

ラモーンズファンクラブジャパンの会長であり、ロック・フォトグラファーとしても活躍中の畔柳ユキさんにインタビュー!
前編では、ラモーンズとの出会い、80年代の音楽シーン、来日公演の様子などについてお聞きしました。
ユキさんにご提供いただいた、貴重なお写真と共にお楽しみください!

憧れの存在だったラモーンズ

●さっそくですが、ユキさんが初めてラモーンズと出会った時のことを教えてください。

ファースト・アルバムが出たくらいの頃に、ラジオで聴いたのが最初だったと思う。ただその時はそこまでいいとは思わなかったんだ。
当時は九州のビートバンドが好きで、特にルースターズを追いかけていたから、洋楽のパンクよりも邦楽のパンクの方が好きだったの。

●そこからまたラモーンズを聴くようになるまでには、どんなきっかけがありましたか?

実は大江慎也の活動休止がきっかけなんです。
ある日いつものようにライブを見に行ったら、急遽「今日から大江は脱退です。」とアナウンスの紙が貼られていて…そのまま活動も一時休止になっちゃった。
ずっと追いかけてたからショックだったよ。だからその時は、ルースターズを連想させるような、ブリティッシュっぽい音を出すバンドは聴きたくなくなっちゃって。その代わりにアメリカの音を聴こうってことで、LP棚を探して見つけたのがラモーンズのファースト・アルバム。
買うだけ買って放置していたんだけど、改めて聴いてみたらすごくよかった!
80年代の初めの方だったかな。ちゃんと聴き出したのはそこからだね。メンバーの中でも特にソングライターのディー・ディーのファンになった。

●他にも当時一緒にラモーンズにハマった仲間はいましたか?

いたよ。ルースターズのライヴをきっかけに仲良くなった女子2人。6畳二間の2DKのマンションに、3人でルームシェアもしていたメンバー。
「今日のBGMは何にする?」「じゃあ私が選ぶ!ラモーンズ!」とか、「動くラモーンズってどんな感じなのかな?」とか話したり、押し入れにマジックでラモーンズのロゴを書いちゃったりしながら過ごしていたら、どんどんラモーンズのファンになっちゃった。3人でラモーンズのことばかり考えて過ごしてた。私の影響で彼女たちは最後にはメタリカまで聴くロック・ファンになっていたけど(笑)。

▲当時ルームシェアをしていたお部屋にて。
壁中がラモーンズでびっしり!「私たちの部屋はリフ・ランデルにも負けてないでしょ?」と、ジョニーにこの写真を送ったこともあったとか。

●ラモーンズ尽くしの毎日ですね!

そうね!でも、本当に情報のない時代だったから、できることは少なかったよ。
今だったら検索すれば一発だけど、インターネットのない時代に海の向こうのバンドの現状を知るのは難しい。当時のラモーンズは活動が停滞していたから、特に情報収集が大変だった。
それでも何とか情報を得られないかなと思って、海外の雑誌や新聞をひたすらチェックしてたよ。
当時ヘヴィ・メタル専門誌の「BURRN!」の編集部でデザインをやっていたから、オフィスにあった洋書を自由に読める環境にいられたのはラッキーだったと思う。それでも、すごく小さい写真しか載ってないとか、名前が載ってるだけとか、そんなのばっかりだったけ。
現地のファンから情報を得られないかと思って、海外のラモーンズファンに、文通コーナーから手紙を送ってみたりもしたけど、相手はパンクスだから返事は来なかったなあ。
あとはもう、想像をする。レコードショップに行って、「これはドイツ盤だからドイツで人気なのかな?」とか、「イギリスで10日間のツアーが組まれている!10日もツアーができるということはイギリスでも人気なのかな?」とかって。

●少ない手がかりを元に、想像力を総動員して推理をするわけですね。

そうそう。もうそれしかできることがなかったからね。だから、86年の夏にルームシェアをしてた子たちとニューヨーク旅行を計画した。ラモーンズを好きになったら必然的にニューヨークへの憧れも高まっていくじゃん?綿密に話し合って、旅のしおりまで作ってさ。
ラモーンズのライヴの予定があったわけではないんだけど、メンバーの出身校のフォレストヒルズ・ハイスクールや、曲名に出てくる53rd&3rd、CBGBなんかを見てきた。

▲旅行時に撮影したフォレストヒルズハイスクールの写真。ユキさんいわく、中に入った証として勝手にジョーイの写真を貼り付けてきたとのこと(笑)

▲後にLOCO PRESS(ラモーンズをファンクラブ会報誌)に掲載されたフォレストヒルズハイスクール潜入レポート。
レポートには、著書『I Love Ramones』でも語られている、学校の看板が取り外されかけるエピソードも。

もうそれだけでも大満足だったんだけど、当時のラモーンズのアルバムをリリースしていたサイアーレコード(ワーナーミュージックの傘下)のビルを偶然見つけたから、入ってみることにしたんだよ。そしたら、背の高いライダースを着た人が通り過ぎていって・・・

●まさか・・・

ジョーイだったね。その時はまだ見たことがなかったリッチーも一緒だった。もう鼻血が出るかと思ったよ。まさか会えるとは思わないじゃん。
無我夢中で話しかけて、サインをもらって写真を撮ってもらってさ。もう飛んじゃうかと思ったよ!

●本当に奇跡のような出来事ですね!

ラモーンズへの気持ちが最高潮に盛り上がっちゃって、帰国してからは、今までは夢みたいだったラモーンズの存在がリアルなものになったよ。
とにかく、ラモーンズはすごいんだぞってことを伝えなきゃいけないと思ったよ。

ラモーンズを支えたメタルシーンの後輩たちの存在

▲素敵なカメラ柄のマスクで取材に来てくださったユキさん

●80年代の音楽シーンにおいてラモーンズはどのように認知されていましたか?

活動はしていたけど、人気は停滞してたよね。そもそもパンクがもう終わっていたし解散したバンドもどっさり。だから、70年代からまだ解散せずに続いている生き残りのパンク・バンドって感じで認知されていたんじゃないかな。
それでもなんとか80年代を生き残れたのは、当時全盛期だったスラッシュ・メタルやNYハードコアのバンドの存在が大きかったと思う。
彼らのルーツにはパンクがあるから、みんなラモーンズをリスペクトしていたよ。
スラッシュ・メタルもNYハードコアも、アメリカで生まれた音楽だから、地元のバンド、ラモーンズを聴きたいしリスペクトもある。
だから彼らはライヴでラモーンズのTシャツを着たり、カバーをしたりしていたし、メタリカはラモーンズのメンバーを楽屋に呼んだりなんかもしてたよ。

●なるほど。そのようなバトンの受け渡しがされていたのですね。そして、単にパンクというだけでなく、「アメリカの」というところが重要だったんですね。

そうね。「俺たちのアメリカのラモーンズだぜ!」っていうね。
特に、ニューヨークのバンドにとっては誇りなんだよね。リバプールのキャバーンクラブのビートルズのように、ニューヨークのCBGBのラモーンズが。
今にして思えば、彼らが名前を出してくれていたことは、ラモーンズにとって重要だったんじゃないかと思うよ。

●そしてついに88年には、2度目となるラモーンズの来日が決定しますね。

そのときにはもう相当なラモーンズ大好き人間になってたから決定したときは嬉しかったよ。ついにラモーンズが見れる!って思った。
チケットを抑えたのはもちろんだけど、編集者としての取材もあったからジョーイとディー・ディーとマーキーを取材した。場所は、今は無き六本木のプリンスホテル。
その時ジョニーはギター誌の取材でいなかったんだけど、廊下に出たらジョニーが出てきたから、「あなたの取材はできなかったけど、全公演行くから!」って図々しく宣言してきた。これがジョニーとのファーストコンタクト。

●ジョニーは何と言っていましたか?

「お前はマスコミなのかファンなのかどっちなんだ?」って言われたから「どっちも!私はあなたの目の前の最前列の席で見るから!See You Later」って答えたよ(笑)
なんだこいつは!って感じだったんじゃないかな。

●凄まじくインパクトのある出会いですね!

変なやつだなあと思われたんじゃないかな(笑)
でもアプローチをすることは大事だよ。

ジョニーとの文通

●ユキさんとジョニーを語る上で欠かせないのが、ジョニーが亡くなるまで続いた文通だと思うのですが、どのようなきっかけから始まったのですか?

2度目の来日公演の時、ラモーンズメンバーは外に出てくることはあまりなかったんだけど、友達の1人が運良くジョニーに会えて私の分のサインを貰っておいてくれた。その友達には、「もしジョニーに会えたら、これまでニューヨークの事務所に送っていたファンレターは届いていたのか聞いておいて。」と頼んでいたので、それを聞いたジョニーが「届いてないから、次からはここに送って。」って、住所を教えてくれたのがきっかけ。

●ファンに住所を教えてくれるって今考えるとすごいことですよね。
どんな手紙を書いたのですか?

来日公演の感想から、日本の音楽シーンにおけるラモーンズの現状や、自分がニューヨークに行った話なんかを、辞書を片手に書き連ねていったね。10枚くらいのレポートのような手紙になったよ。「返事はここに」なんて返信用の封筒も入れてね。そのくせ切手は貼ってないんだけど(笑)。
そうしたらしばらくして小包が届いて、何だろうと思ったら小さい字で「John Cummings」って書いてあった。もう、狂喜乱舞だよね。
震える手で開封したら、「ありがとう ジョニー」とメッセージの入ったポスターが入ってた。

▲最初に届いた、サイン入りの『ラモーンズマニア』宣材ポスター!
ポスターが入っていた封筒と共に額縁に飾られている。
▲その後もジョニーが送ってくれた、各国のツアー告知ポスターやフライヤー。

●ちゃんと届いたんですね!

本当に嬉しかったよ。その後も手紙を送って、メッセージの入ったポスターやブロマイドの返信が来たんだけど、3回目くらいのやりとりをした時から、文章を綴った手紙で返してくれるようになった。

●ファンレターに返事をしてくれるというのは、他のバンドやミュージシャンでもよくあることだったんですか?

いや、そんなことはないと思う。クイーンがブロマイドにサインして送ってくれたってエピソードなんかは聞いたことがあったけど、文章で返信をするっていうことはなかったんじゃないかな。ミュージシャンにそんなマメな人間はいないだろうし。
ジョニーの場合は、映画グッズのコレクターだったっていうことが大きかったと思う。コレクションのやり取りをするために、郵便局で手紙を書いたり、切手を貼ったりすることは日常茶飯事だったからね。
あとは、私が音楽雑誌の編集者でマスコミの人間だったいうのもあるよね。日本の音楽シーンの情報を得られるし、自分の味方になるマスコミ関係者ができるのはバンドにとってもプラスになるじゃん?だから、ちょっと子分にしておくかってのはあったと思う。
ジョニーは目利きがすごくて、マスコミだろうがファンだろう信用できなければぶった切ってシャットアウトしちゃうような人だからね。そういう部分を買ってくれていたんだと思う。

●ジョニーにとっても、遠い日本の情報網ができるというのは有益なことだったんですね。

そうそう。
「この前の公演はすごく盛り上がったから、また来日できるよ!」とか「日本の音楽シーンはこんな感じだよ!」とかね。あとはラモーンズが載った記事を送ってあげたり。読んでなるほどなって思ってもらえるように具体的な情報を沢山書くようにしていたよね。

●ジョニーからの返事には、どのようなことが書いてありましたか?

「そうか。それなら~がよさそうだな。」とか「インタビューは日本語だから本文は読めないけれど、紙と写真はいいな。」とか、感想が多かったね。
こうして欲しいっていうジョニーから要望はないの。「そうか、なるほど。」って感じで。
あとは、「日本のファンはラモーンズに何を求めているんだ?」ってことはよく聞かれた。ファンにとって何がベストなのかを常に気にかけてたね。

60分一本勝負!熱意のノンストップライヴ

●ズバリ、ラモーンズのライヴとはどんな感じでしたか?

SEが流れて、お立ち台に両サイドの2人が上り、イントロの「Durango 95」が始まった瞬間からすごい圧力で、客席はダイブの滝。60分一本勝負。ノンストップで駆け抜ける感じ。

●ライヴの観客はどのような人が多かったですか?

90年代は男女比は7:3くらいの割合で男が多かったね。軍隊みたいだったよ。革ジャンを着ているファンがほとんどだけどロンドンパンクぽいファッションもいたかな。

●男性客の方が多かったんですね。女性客はどんな感じの人が多かったですか?

時代によっても違うけど、パンクファッションとかってわけじゃなく、普通の女の子が多かったね。
メンバーの人気ってところでは、ジョーイファンが多かったかな。フワーっとした優しい雰囲気があるから。ジョニーは特別に女子の人気があるというわけでもなかったな。

●会場について気になることがありまして、クラブチッタ川崎の使用率が異常に高いなと。同じ会場で2~3日間公演というのはよくあると思うのですが、3度目の来日の90年は6日間もチッタが使用されています。
これは、他のバンドでもよくあるパターンだったんですか?

いや、ラモーンズだけだね(笑)
今、これまで私がチッタで撮影をしてきたアーティストのライヴ写真が巨大パネルになってクラブチッタ通りに飾られてるんだけど、他のアーティストは1枚ずつなのに、ラモーンズの写真だけジョーイとジョニーで2枚セレクトされてるからね。アーティスト写真を選定するとき、チッタ側も「ラモーンズはチッタにとって重要なバンドなので絶対入れますよ。」とは言ってくれたけど、それでも2枚入れるのはなかなかないじゃん。

▲クラブチッタ通りの巨大パネル

●ラモーンズはクラブチッタ側としても、特別なバンドだったのですね!
なぜ、会場としてクラブチッタが使われるようになったのでしょうか?

スタンディングでライヴを見るっていう文化が生まれたのが、80年代後半で、チッタができたのも同じ時期だった。キャパが1000人以上でスタンディングのライヴができる会場が当時はまだ他にはなかったから、唯一無二の会場だった。そのタイミングが合ったっていうのが大きい理由じゃないかな。

●まだスタンディング形式でのライヴ文化が未熟な中で、パンクバンドがライヴをするというと収集がつかなくなりそうなイメージがありますが、ラモーンズの場合はそういったトラブルはなかったんですか?

酔っ払いの小競り合い程度はあったけど、振り返ってみると大きなトラブルはなかったね。
60分一本勝負のラモーンズのライヴスタイルがよかったんじゃないかな。ライヴが始まれば終わるまでノンストップだし、トラブルを起こす暇もないような雰囲気だったから。
そして何より、ステージには鬼軍曹がいたからね(笑)

●鬼軍曹(笑)

例えば、ステージに登ってきたやつがいたらアーティスト自ら肩を組んで、一緒に歌うなんてことがよくあるじゃない?むしろ「上ってこい!」って観客を煽ったり、「自由にやらせてやれ!」って警備員を止めたりして。でも、ラモーンズでそんなことをしようものなら烈火のごとくジョニーが睨みつけてくるからね。ライヴの流れを止めるなんてご法度だから。
1度どこかの会場でステージに上ろうとした人がいたんだけど、その時は、ジョニーがすぐさま指示を出して、その場で摘まみだされてた。それで警備員の方を見て頷きながら「いい仕事をした!」って感じで賞賛してた。だから、普段他のライヴではステージに登ったり野次を飛ばしたりっていうタイプのパンクスも、ラモーンズのライヴではそういうことはしなかったし、ラモーンズはパンク・バンドでありながら独自の秩序を持っていたよね。観客側も、ラモーンズのライヴは形式に乗っ取って60分間全力で集中して盛り上がるのを楽しんでた。
あとは、来日公演の主催だったSMASH側も、ラモーンズのライヴ形式をよく理解してた。ダイブするファンたちをスムーズに回す流れを警備員にしっかり覚えさせていたから、ステージ前方に流れたらすぐに横にはけさせて、また後ろに戻すという今ではお決まりの流れも自然にできてた。バンドと観客と運営の連携がとてもうまく取れていたと思う。

●一歩間違えれば大きなトラブルが起こりうる状況と、ライヴの盛り上がりを両立させるってすごいことだと思います!
ラモーンズがきちんとスタンディングライヴの成功例を作ってくれたことは、後の日本のライヴシーンにおいても重要なことだったかもしれませんね。

今思うと、それはあるかもしれないね。何より、鬼軍曹は絶対だから。ラモーンズのライヴが軍隊っぽいって言われる所以でもあると思うけど(笑)

☆インタビューの後半は、8月9日に更新いたします!☆


プロフィール
畔柳ユキ(Yuki Kuroyanagi)/RAMONES FAN CLUB JAPAN会長・ロック写真家

RAMONES FAN CLUB JAPANを92年から運営。ジョニーラモーンが亡くなるまで、16年間文通をしていた。ロック写真家として、FUJI ROCK FESTIVALやSUMMER SONICなど、日本を代表するフェスティバルでは初回から撮影を行なう。

お知らせ
クラブチッタ x RFCJ】ラモーンズ巨大パネルを一望できるイベントが開催決定!
クラブチッタの2階のBAR「アティック」で、ラモーンズだらけのイベントを開催 !
窓から見える10mのジョニーやジョーイとツーショット撮影コーナーや、チッタにまつわるラモーンズの写真展やDJが楽しめます。ピザの宅配もあり!?
こちらのイベントはラモーンズファンクラブ会員以外の方でもご参加いただける予定です。開催は、秋頃を予定していますが、確定次第お知らせしますので乞うご期待!

著書のご紹介
『I Love RAMONES』リトルモア/2007年

Don’t Look~?編集長イチオシポイント!

このインタビューを読んで、もっとユキさんについて知りたいと思った方はぜひ本書を読んでみて下さい。
憧れだったラモーンズを追いかけていくうちにジョニーと文通をするようになり、ファンクラブを結成し…というと「スター」と「ファン」の夢物語のように思うかもしれませんが、違います!これは熱意と愛のDIYパンクロックストーリーです。ジョニーとユキさんの全力投球な熱いやりとりは必見です。
「好き!」という気持ちでひたむき突き進んでいけば、夢は実現できる。ラモーンズファンに限らず、やりたいことや叶えたい夢を持っている人にもぜひ読んで欲しいです。

『Thank You RAMONES』リトルモア/2017年

Don’t Look~?編集長イチオシポイント!

続編となる本書では、バンド解散後のファンクラブ運営の葛藤や、残されたラモーンズメンバーたちの想いや活動について綴られています。
バンドが解散してしまっても、オリジナルメンバーがいなくなってしまっても、ラモーンズは止まらない。心の底から「日本のラモーンズファンでよかった。」と思える一冊です。
ニューヨーク&LAの聖地巡礼ツアーのページは、参加しているような気持ちで読むととてもワクワクします!


協力 : クラブチッタ川崎 https://clubcitta.co.jp/
ラモーンズ・ファンクラブ・ジャパンhttp://www.ramonesfanclubjapan.com/index.html

INTERVIEWED BY タムラモーン
PHOTO BY カレー・ラモーン

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